a)異議申立て
公文書管理委員会に不服審査を求める場合、公文書管理法の何に違反をしているのかを主張する必要がある。
そこで、不服審査を要求する目的を自分なりに整理してみた。
1.勝てるに越したことはないが、この資料自体は開示されてもそれほど意味は無い。あくまでも争うための道具として使う。よって、できる限りこの文書固有の問題に限定されない方向に議論を広げること。
2.「皇室文書」の定義を明確にすることが第一目的。特に、ブラックボックスのように都合の悪いものを「皇室文書」扱いにして隠すようなことが続く可能性がありうるので、その牽制をすること。
3.この審査によって「皇室文書」カテゴリーの文書があることをネット上に証拠として残し、この問題の存在自体を広報すること。
特に2の部分が重要ということになる。
おそらく、今後宮内公文書館で同じことは起きないだろう(すでに皇室文書に移せるものは移したはず)。
ただ、行政文書には「皇室文書」とされるものが増えるだろう(おそらく管理法施行前に、行政文書の管理簿から消した文書があるのではと推測)。
あとは、行政文書の保存年限が来て永久保存する際に、宮内公文書館に移管せずに「廃棄処分」をして皇室文書に組み込むというやり方をしてくる可能性がある。
これを踏まえた上で、何を法的な争点にするかということになる。
ありうるとすると特定歴史公文書等の目録登載の不備(公文書管理法第15条第4項)かなと思ったのだが、専門家の方に相談した所、そこだけを争点とするのは「目録に載せるか載せないか」の問題になり、争点としては無理があるのではと言われたので、「特定歴史公文書等として存在しないことがおかしい」とジャブを放っておき、あとは出方を待つということにした。
そして2012年1月16日に公文書管理法に関連する異議申立てを宮内庁に対して起こした。
資料5 異議申立書(2012年1月16日)
(申立書の中の資料2は、前項で説明した「資料2」「資料3」のコピーなので略。)
内容としては、以前「業務日誌」を見たが、その後見れなくなったという経緯についての説明がほとんど。
ただ、「皇室文書」の定義を問題とするということは理由の中に入れておいた。
b)宮内庁の反論
これに対して、宮内庁側も30日できちんと反論を返してきた。
資料6 宮内庁の理由説明書(2012年2月14日)
宮内庁の反論はほぼ予想の範囲内に収まっていた。
まず、宮内公文書館は請求を受けた時点で当該文書を保存していないのだから、瀬畑の主張には根拠が無い。
次に、利用請求は目録に従って行うものであるので、公文書管理法第16条第1項(第15条第4項の目録に従って利用請求をする)の形式を満たしていないのは瀬畑の方である。
ただ、さすがに「以前に見た」というこちらの主張にはきちんと経緯を説明せざるをえないと判断したようで、この点については補足説明があった。
それによると、この「業務日誌」は、「昭和33年当時未成年であった内親王のお住まいに勤務して、御日常のご生活のお世話に当たっていた側近職員が、内親王に代わって日々の出来事を書き留めておいた日誌であり、本来皇室に帰属すべきものである」が、「本件簿冊は、宮内庁書陵部が所蔵する歴史的資料の中に紛れ込んでおり、当時書陵部に備えられていた目録「書陵部歴史的資料ファイル検索システム」にも誤って「業務日誌(昭和33年)」というファイル名で登載されていた」ものである。
そして、公文書管理法が公布されたので、公文書管理法に基づいた目録を作成するための準備作業を行い、その作業中に「紛れ込んでいたことが判明」し、「本来の帰属場所にお戻し」し「ファイル名を削除した」とのことだ。
つまり簡単に言うと、本来、皇室に帰属する私文書だったのだが「間違って」行政文書として登録されていたので正しい所に「戻した」との主張である。
c)私の反論
これに対して、当然私の方から反論を提出した。
資料7 私の意見書(2012年2月28日)
私の反論は3点からなる。
1.公文書管理法第16条第1項に反しているという主張に対する反論。
2.当該文書が「特定歴史公文書等」であることの理由(宮内庁の後半の「補足説明」への反論)
3.+αとして、そもそも「皇室文書」のカテゴリーがあること自体が違法であると主張。
まず1から。
宮内庁は第16条第1項に瀬畑が反していると主張するが、そもそも「目録に従った請求」が成立する前提は、第15条第4項の「目録の作成・公表」がきちんとなされていることが不可欠であり、前提条件を欠いている宮内庁側がそもそも違法行為を行っている。
この部分は、結局当初考えた通り、「目録未登載」を問題とするという話になったが、第16条第1項との関係を問うことになったので、論理的には戦いやすくなった。
次に2について。
2010年の段階では、情報公開法に基づいて書陵部の歴史公文書は保管されていたはずなのだから、その文書を目録から外すのは情報公開法に違反するのでは無いかというのをジャブとして放った後、当該文書が「行政文書の定義の3類型」に当てはまるかを検討した。
つまり、0章で述べたが、①行政機関の職員が職務上作成・取得、②組織的に共有、③保有、の3点である。
これに当てはめると、当該文書は「側近職員が自らの職務として執筆していた」①、複数の職員が書いていた②、宮内庁で保管③、で3点を満たすので、行政文書である。
さらに、作成から52年、情報公開法施行から10年にもわたって「行政文書」であったものを、いまさら「行政文書ではない」というのは無理だろう、ということも指摘しておいた。
これは単なるイヤミであるのだが、委員への印象への影響として主張しておいて損はないだろうという判断。
最後に3について。
これは、宮内庁を「皇室文書」の定義論に引きずり出すための仕掛け。
法的な争いには関係が無いのだが、委員の方が関心を持ってくれれば、絶対に食いついて宮内庁に質問してくれるだろうという期待をかけて書いた部分。
特に私が心配していたのは、これまで宮内庁と情報公開の不服審査で争ってきた「侍従職日誌」や「東宮職日誌」が同じような扱いを受けて「皇室文書」にされてしまうのではないかという点であり、こういった公式記録は隠蔽させないようにという意図を強く意識して文章を書いた。
内容としては、
そもそも「皇室文書」は公文書管理法上のどのカテゴリーに属するのか、宮内庁は明らかにするべきである。
行政文書の3条件を満たしているものは全て行政文書として扱い、宮内公文書館に移管された際には「特定歴史公文書等」として管理をされるべきである。
もし、公文書管理法上に位置づけられないならば、「皇室文書」カテゴリー自体が違法であり、「皇室文書」への移管が今後行われるようなことがあれば、それ自体が違法だ。
といった、かなり挑発的な書き方をあえてして、宮内庁からの反論を待つことにしたのである。
d)委員会からの意見提出要求
さて、私の反論に対して、宮内庁はどう対応してきたか。
ありがちではあるが、「文書で対抗するのは不利になるから、委員に直接口頭で話すことで理解をえよう」としたのである。
もちろん文書で反論するのが内容的に難しいという判断もあろうが、私がこの審査を行う意図も反論から伝わったものと思われ、これ以上議論に乗らない方が良いという判断が働いたのかもしれない。
すると、公文書管理委員会が「意見書等の提出」を私に要求してきた。
資料8 公文書管理委員会「意見書等の提出について(依頼)」2012年4月4日
この4月4日は、宮内庁書陵部図書課長などが委員に対して口頭説明を行っている。
その結果、委員の側から「業務日誌」の内容について説明してほしいとの依頼があったのである。
これから推測するに、宮内庁側は「所有していない以上、現物は見せられない」という態度を委員会に取ったものと思われる。
要するに委員会は「インカメラ」審議(不開示になった現物を委員が実際に閲覧すること)をすることができなかったのである。
そのため、私に「その文書がいかなるものか説明してくれ」という依頼がやってきたのである。
なぜ宮内庁でなく私が説明するのかと思わざるをえないけど、宮内庁は「存在しない」と言っている以上、出すわけにはいかないという論理はわかるので、こちらから当時とったメモを復元して提出した。
資料9 私の意見書(2012年4月24日)
この際に、この「業務日誌」が内親王が個人で記録しようとするような代物では全くないということを説明した。
これで双方からの資料が出そろったことになる。
その後、最終決定を行った回も含めれば、3回にわたって委員会の審議が行われた。
それだけ難しい案件であったことを示しているだろう。
そして、7月27日に答申が発表された。