さて、今回の「皇室文書」をめぐる不服審査で何を得ることができたのだろうか。
感想めいたものを書き残しておきたい。
まずは「皇室文書」の定義について、完全では無いにしろ、一定程度の情報を得ることができたことは成果だっただろう。
前章の「当該文書(「業務日誌」昭和33年)の性質」の項目で述べたように、皇室の私的文書に限定した定義がなされているであろうということが推測できた。
ただ、宮内公文書館のような非現用文書を扱う所ではそれほど問題にならないだろうが、現在皇室文書として日々更新されている文書はどうなっているのだろうか気になる所ではある。
例えば、愛子内親王に関する日誌などだ。
こういったものはいったいどういう管理の仕方をしているのだろうか。
目録に無い文書群が、宮内庁の各部局で発生していないだろうか。
その場合の文書管理はきちんとなされているのだろうか。
また、前から気になっているが、宮中祭祀をつかさどるため、現在では天皇の私的な使用人となっている掌典職の文書はどのような管理のされ方をされているのだろうか。
掌典職は戦前は宮内省の一部局であった。
しかし、戦前の文書も含めて、宮内公文書館には文書が一切移管されていない。
完全にブラックボックス化してしまっている。
宮内庁という組織は、日本国憲法施行時に、戦前との整合性を合わせるために相当な無理を通して作られた組織である。
そのため、公私の区別も簡単では無い。
よって、公私の区別を明確化することを要求する情報公開法や公文書管理法という法律にはそぐわない側面が、様々な形で噴出してこざるをえない。
これはこういう組織である以上、やむをえない側面でもある。
だが、だからといってその公私の判断を宮内庁任せにしては、元々情報公開に積極的では無い官庁である以上、どんどんと情報を隠す方向に向かうだろう。
今後も「皇室文書」は、必要悪という形で宮内庁の中で残っていくだろう。
ただ、それを存在しないものとするよりは、「皇室文書」に明確な定義をきちんとすることが必要だと思う。
法的な問題が絡むので簡単では無いとは思うが。
なお、今回の件で、私も誤解していた部分がいくつもあり、その点については氷解した部分があった。
法定目録を作る経緯の部分や、なぜ私が閲覧できた文書が目録から無くなったのかという経緯については、同意はしないけど理解はできた。
その意味でもやはりきちんと委員会の場で争ったのは良かったと思っている。
この文書の問題は、天皇制のあり方そのものとも直結しており、非常に難しい案件であったと思う。
だが、今後もこの問題には継続的に取り組んでいきたいと考えている。
追記
なお、この答申や宮内庁の最終決定に対して、裁判を起こして戦うという道が残されている。
だが、そこまでやる気は無い。
というのも、今回の公文書管理委員会の答申を書いた3名の委員の方の多くは、私の活動に理解のある方である。
その方々がこういった結論を出した以上、これ以上の結論を裁判で望めることはないだろう。
この件については、ここが潮時だろう。
ただ、今回の答申に関わった委員の先生方の名誉を守るために、きちんとこれだけは書き残しておきたい。
今回の不服申立を行って以降、答申に関わった3名の委員の方に、私の方からこの件に関して何か特別な情報提供をしたとか、御願いをしたということは一切無い。
私の方から遠慮して、できる限りこの審査に関わることは話さないようにしていた。
(一回、某委員から、形式的な用件ではあるが、この件に関係する話を振られたことがあって、相当に焦ったことはある。関係者が一杯いる場所でもあったので・・・)
もちろん「無いことを無い」と証明するのは悪魔の証明なので無理だが、この点については私の言葉に嘘偽りは一切無い。
これは公文書管理委員会の正当性に関わることなので、私も相当に神経は使った。
ブログで途中経過を書かなかったのも、そのことが理由の一つであった。
2012年8月29日。瀬畑記。