a)公文書管理委員会の答申
2012年7月27日に公文書管理委員会は答申を出した。
http://www8.cao.go.jp/koubuniinkai/fufukutou/2012/20120727/20120727toushin.pdf
まず結果から言えば、私の負けである。
宮内庁側の主張が認められた。
負けたこと自体はやむを得ない。当初からそこに主眼があったわけではない(ただ、そうは言ってもあまりいい気分がしなかったのは確かだが)。
焦点は「皇室文書」についての定義を明らかにできたかである。
この点については、完全にとは言わないが、ある程度までは情報を引き出せたとは言えるかと思う。
委員会が宮内庁から口頭説明を受けた部分を理由説明に書いてくれたので、私の主張に対してどのような主張を宮内庁が展開していたのかが、それなりには明らかになったためである。
委員会の判断した理由は、上記答申の6ページ目以降に書かれている。
それに沿って説明していきたい。
b)答申の解説
○法的問題
委員会は、今回の法的問題を、宮内庁が当該文書を法定目録に載せなかったことが妥当であるのかについて判断した(公文書管理法第15条第4項)。
これによって、まず第16条第1項を優先させることによる門前払い(つまり私の言い分には妥当性が無いと一刀両断して即却下)はしないということである。
もちろん、ここまで私の言い分を書かせてくれたわけだから、門前払いは無いとは思っていたが。
○公文書管理法以前の閲覧について
これについては、法的にはこういうことかと改めて勉強になったが、宮内公文書館に所蔵されている文書は、元が行政文書であるか否かは関係なく、あくまでも「行政サービスの一環」として閲覧が「許されていた」ということである。
確かに、公文書管理法によって特定歴史公文書等への請求権が閲覧者側に初めて認められたので、それ以前には請求権は存在せず、あくまでも宮内庁側の「好意」で見せてもらっていたということになる。
つまり、管理法以前に文書が見れていたのは、私の「権利」ではなかったということになる。
○当該文書(「業務日誌」昭和33年)の性質
ここについては、宮内庁側の口頭説明の内容が付け加わっていた。
この部分は重要な解釈なので、宮内庁の主張を引用しておく。
ⅰ)本件簿冊は、昭和33 年当時、一人で生活されていた内親王のお住まいで、生活を共にしながら内親王の手足として、食事の用意、 掃除、洗濯、買物等の日常の生活全般に奉仕していた世話係の職員が記入していたものである。
ⅱ)記載内容は、内親王と両親や親戚との間での年間を通じて頻繁にやりとりされる慣例的な贈答や、誕生日祝の面会等の記録であり、 記載の目的は、内親王が皇室や身内との交際等に遺漏がないようにするため、いわば内親王本人の心覚えのためであって、世話係の職員が内親王本人に代わって書き留めておくことにあったものと考えられる。
ⅲ)このような皇室の方の家庭の中において、皇室の方本人の明示又は黙示の意思又は指示によって作成される文書は、皇室に帰属するものであって、侍従職の職員は皇室の方の手足となって代筆しているに過ぎず、職員が作成しているものとは言えない。 また、本来、皇室の方の各家庭の中においてどのようなものが作成されているのかといった情報も含め、宮内庁職員であっても共有されるものではない。
ⅳ)侍従職の職員が皇族の方々の奉仕に当たって、行政機関の職員の職務として必要な事項等の記録については、「侍従職事務日誌」等の行政文書を作成しており、上記のような皇室の方の手足となって記録している文書は、例えば、買物の領収書や家計簿、お召し物の記録等について書き留めたりするようなものであって、行政文書とは別のものである。
特に重要なのはⅲ以降である。
まずⅲでは、たとえ宮内庁の職員が作成した文書であっても、「皇室の方の家庭の中」で「皇室の方本人の明示又は指示によって作成される文書」は「皇室に帰属する」と主張している。
つまり、宮内庁の職員が作成したとしても、これは「職務上作成したものではない」として、私の主張する「行政文書の定義の3条件」の①を否定している。
また、この部分で「宮内庁職員であっても共有されるものではない」と主張しており、「行政文書の定義の3条件」の②も否定している。
そしてⅳは、この「業務日誌」は「侍従職事務日誌」とは全く性格が異なるとしている。
つまり、私が危惧していた「侍従職日誌」の「皇室文書」化は無いと宣言している。
この二つは、事実上「皇室文書」の定義について述べている部分である。
つまり、宮内庁は上記の要件を満たすものは「皇室文書」と扱っているということを示している。
(ただし、これ以外に「皇室文書」に定義される文書類型がある可能性は否定できていない。)
私にとってはこれは大きな成果である。
それに「侍従職日誌」は行政文書であると明確に定義がされたことも重要である。
ただ、この当該文書の性質については、委員会は私が挙げた「行政文書の定義の3条件」のうち、①の「宮内庁の職員が職務上作成する」という点は私の主張の方を認めてくれたが、②の組織的共用の部分については、内親王の私的な日誌であり、共用されるものではないという宮内庁の主張を認めた。
結果としてこの文書は行政文書にあたらないという結論が出された。
はっきり言って法的な解釈の争いで言えば、これのみで私の負けは確定している。
しかし、委員会は別の論点についても、結論をきちんと出してくれた。
○法定目録の作成過程
私が、それまでの書陵部の目録に登載されていた文書が、管理法施行後の目録に未登載になったことを問題にしたため、この二つの目録の違いについて、宮内庁から口頭説明がなされていた。
宮内庁の説明によれば以下のようなものである。
①元々書陵部では、皇室に伝わる皇室用図書(古典籍等)と宮内庁から移管される非現用の行政文書が事実上一体管理されていた。
②情報公開法が施行される際に、既存目録に未登載の文書を目録化しなければならなくなり、文書の正確や内容を良く検討しないまま、書陵部歴史的資料ファイルに登載をした(別に管理されていた皇室用図書は除く)。そのため、行政文書と関係ないものまで混ざってしまった。
③公文書管理法の公布により、国民の利用請求権の対象となる特定歴史公文書等の目録を作成するために、保存文書46万点を一点一点確認し、皇室用図書は書陵部図書寮文庫の管轄に、特定歴史公文書等(非現用行政文書のことだと思われる)は書陵部宮内公文書館の管轄に、それ以外に皇室に属する文書は皇室に返した。
この経緯は、おそらくそうだろうなと思っていたものが宮内庁から正確に説明があったので、すっきりした部分。
さらに、これは宮内庁側が正当性を主張するためだろうが、図書寮にあった皇室用図書のうち2万点余を宮内公文書館に移したと述べている。
これは全く知らなかった。
○「皇室文書」の定義
上記を踏まえた上で、委員会は「皇室文書」の定義について宮内庁に確認をしている。
この説明によれば次の通りである。
諮問庁口頭説明において、この「皇室文書」について確認したところ、 諮問庁は、行政文書に該当しない、皇室に帰属する文書を、ここ数年、便宜上そう呼ぶことがあるに過ぎず、「皇室文書」という定まった概念やカテゴリーがあるわけではなく、また、そのような文書群を行政文書や特定歴史公文書等の他に保有しているものではないとしている。
つまり、宮内庁は「皇室文書」の定義は「無い」と主張している。
あくまでも、「皇室に帰属する文書」を便宜的にそう呼ぶだけであり、公文書管理法に違反してこれらを保有していることは無いと主張している。
結局最後まで宮内庁は「皇室文書」の定義を明確にはしなかった。
ただ、上記の「業務日誌」の位置づけの部分で、多少はこの定義の説明がなされているので、明らかになったことはあったと言えるだろう。
○「皇室文書」の保有の有無
最後に、「行政文書の定義の3条件」の③に属する「当該文書を保有している」か否かである。
宮内庁は侍従職を通じて皇室に返したと主張しているが、委員会のヒヤリングに対して「返却したことを記録した文書はない」と述べている。
私は書陵部で保管していると思っているが、疑わしきは・・・ということで、宮内庁側の主張が認められた。
私個人としては、こっそり書陵部で保管されていることが望ましいと思っているので、これについてはあまり追及する気がない。
むしろ「皇室に返した」ときにいったいどこで保管されるのか?
アーキビストがきちんといる書陵部で保管されていた方が、どうみても良いことは疑いないと思う。
○結論
結論としては、私の根拠とした「行政文書の定義の3条件」のうち②と③が宮内庁の主張が認められたこと、またそのことから当該文書は行政文書ではない(よって特定歴史公文書等でもない)ため、法定目録にこの簿冊の情報が登載されていないことは妥当とされた。
よって、私の異議申立ては却下された。
d)宮内庁の最終決定
この答申を受けて、宮内庁から最終的な決定通知が送られてきた。
資料10 宮内庁の決定書(2012年7月31日)
もちろん、私の異議申立ては公文書管理委員会の答申に基づいて却下された。
この手続きで、今回の不服審査はすべて終了した。